山本純ノ介公式ウェブサイト
Junnosuke Yamamoto official web site
お問合せ先。メールアドレス。@miraiongaku.jp
トップページへ 楽曲解説のページへ コンサートのお知らせのページへ 出版物のページへ(準備中です。)
プロフィールのページへ 作品リストのページへ 過去のコンサートのページへ 関連リンクのページへ
フィロソフィーのページへ 音源・楽譜のサンプルのページへ
   
   

楽曲解説

     
    各楽曲には、PDFファイルとDOCファイルを添付してあります。
必要な方はファイルをダウンロードしてご利用下さい。
尚、楽曲解説をご利用の際は使用目的、連絡先等を記述の上、
以下のメールアドレスまでご連絡いただきますようお願いいたします。

e-mail: (準備中)
   
   

管弦楽

室内楽

声楽

 
   
 
   

舞台

合唱

吹奏楽

 
   
 
             
   

管弦楽

       
  1998        
   

交響曲3番 五重塔
Symphonie Nr 3 Die fünfstöckige Pagode

   
   

 交響曲3番のスケッチが貯まってはいたが、なかなか先に進まなかった頃、川原さんから、チベットホルンの音源を聴かせて頂いた。その圧倒的な存在感に接したことで、楽曲の方向性は決まった。そして、地中から蓮華院に湧出したように、現代の木造建築の粋を集めた五重塔が建立された。これらのことを音楽として讃歌し留めたいと感じていた。そして、聲明と尺八を交響曲の中に取り入れることを決めた。このことは、和楽器の協奏曲とするのではない。
 東洋の交響曲である必然として、そのような楽曲構成の交響曲が作曲される時代に日本がさしかかって来ている事実として、聲明と尺八の入った交響曲が作られた。西洋でも、ベートーベンが9番目には交響曲としながら、ソリストや合唱を加え、マーラーが積極的に合唱やオルガンを伴った交響曲を作曲した事実がある。尺八は、重音など高度な技術を要求され、カオスの大音響のなかから一筋の道筋が生まれたことを象徴する、万物の根源である「阿字」を観想して頂き瞑想のなかで曲を閉じる大切な役割を担う。聲明は廻向句、對揚を厳かに、毅然と唱えて頂き、『散華』を伴った、万教融和の平和理念を新たに加えさせて頂いた。
 本日は、聲明の『散華』を伴った、2楽章部分を4手連弾と『びんざさら』『Cin』『象の鈴(Elefantenglocke)』など東洋の楽器とのコラボレーションの形態で演奏いたします。

     

▲ ページトップへ

             
   

室内楽

       
  1994        
   

ピアノのための絶対音楽
Absolute musik für Klavier

   
   

 この楽曲の題名について、随分と長い間考え続けていた。
また、この曲だけにかぎらず、巷に氾濫する音楽作品の題名をみるごとに、
様ざまに、それぞれのひとが、おもいを巡らすことだろうと。
標題があることそれ事態、新作の誕生において、個々の作品にとって、
真に、幸せなこととなっているのだろうか。
と自問している作家のひとりに、私がいる。

 楽曲の創作時に、題名にかなり、こだわっている自分についても悩む。
標題そのものを、つけることにも悩む。
題名そのものの、発想はいくらでも湧いてくるのだが、はたして、それが、作品の本質をきちんと、表現しきれているかどうか、弁(わきま)えているか、にも悩むのである。
 また、つねに、一つのモチーフから創作するだけではないし、むしろ標題や、様々な事象などに触発されて作曲することもあるわけで、その己の創作姿勢や、それらからの着想で作ろうとすること、またそれらの是非についてすらも迷いがある。
 本来、言葉そのものでは、表現しきれない芸術としてあるべき姿が音楽ではないか。その、長所である、抽象性を自ら放棄することの愚かさについても思い悩む。
既成の言葉で綴られた題名をさがさなければ、斬新な作品に見えないのだろうか。または、聴こえないのだろうか。
標題や、分析などによる妙味が優先されて作品そのものの印象が支配されることに、一抹の不安を覚える。
 標題は作品の記号でしかない。との意見から、作品の顔そのものだ。など様々な解釈がある。また、西洋の歴史を振り返っても、絶対音楽と標題音楽のそれぞれの主張には、隔たりがある。ましてや、西洋の技法を身にまとった、東洋の人間が作る音楽に、絶対とか、標題とかを論じることそのものにも、疑問を抱くのである。
 題名からうける印象によって、作品そのものに対する批評、批判、が大きく異なる事実もよく知っている。私自身もそれらを、体験したこともある。
また、一般の聴衆には、解り易いことも必要とも思うが、反面作品そのものを、良く聴かずに、または理解されずに題名による印象を優先して判断されてしまわないかが、わたしにはとても気にかかる。そして、そのように利用された標題と実際の作品との乖離にたいして、どれだけの人たちが考慮するのだろうかと。
 ならば、<ソナタ>とすれば良い。という話になろうが、前述のように、ソナタ形式で書かれたわけでもないし、ましてや日本人の創作といった点に腐心し、強く意識を持っている私としては、それもつまらぬ選択に思えた。
 結果として、標題に支配されない日本語であり、標題のあることで作品の抽象性が損われずに、かえって抽象や具象の問題を強く意識させる楽曲名との<意>を込めて、この楽曲の標題を<ピアノのための絶対音楽>とした。

 

   
  2001      
   

"CALLIGRAPHY"(書)U〜チェロ独奏のために〜 (2001改訂版)
Kalligraphie (Sho) U für Violoncello allein

   
   

 Kalligraphieはチェロとピアノのために作曲した。その第2番の方向を模索している時、1993年に日野善子さんの舞いが絵筆のように様々な文字や書を表現していると感じたことが新たな着想となり、静寂の『書』から、生命力溢れる『書』として、Kalligraphie ・の作曲に着手した。一言で『書』といっても、表意文字Ideograhm、表音文字Phonogramそれぞれのなかに様々な形態があるし、禅で悟りの象徴として描く円輪『円相』(Japanese traditional customer calligraphy.That is a simbol of enlightment)は『書』の概念では推し量れない。また、ナポレオン軍がエジプトに遠征した時に発見された黒色の玄武岩・ロゼッタ石(Rosetta stone)に刻まれた、三つの書体Hieroglyph(聖刻文字)、Demotic(古代民衆文字)、Greek(ギリシャ文字)によるプトレマイオス五世の讃辞には時代を超越してきた文字の凄みに惹かれる。どちらも神秘的で崇高な聖なる息吹を感じる。このようなKalligraphieに触発された音像を更にチェロの音色によって、音楽として変容させたいと強く感じている。当初は最初と最後が指定された、12の断片を演奏者が即興的に選んでいたが、幾度も練習や再演を経ている内に、固定された作品として変貌した。
  結果的には折に触れ、8年近く細かな部分に手を入れ、2001年に終結部を大幅に手直しして、決着した。楽曲は、T・U・Vの3つの楽章によって構成されている。

 

 

▲ ページトップへ

  2001        
   

碑 文 
EPITAPH

   
   

Coals in the fog
were roses rooted in your heart
and the ashes covered your face
each morning.

Plucking cypress shadows
you left a summer ago.

Between two bitter moments you don't have time even to breathe
between your face and your face
the tender form of a child takes shape and vanishes.

In the sea caves
there's thirst there's love
there's an ecstasy
all hard like shells
you can hold them in your palm.

In the sea caves
for whole days I gazed into your eyes
and I didn't know you nor did you know me.

Stop looking for the sea and the wave's fleece pushing the caiques along
under the sky we are the fish and the trees are seaweed.

 ギリシャの詩人ジョージ・セフェリス(GeorgeSeferis)の大変親しい友人ツァツォス(Tzatzos Konstandin)は、事あるごとに、セフェリスの詩について、二人で意見を交換していた様です。とても、小柄な大統領でも知られていた彼とセフェリスは、しかしながら、どの詩についても、一定の解釈を各々の詩に定める事をしようとはしなかった様です。それが、セフェリスの主張でした。鑑賞する側でどのようにでも捕らえて良い、むしろ、様々に各々が『詩』から受け取る印象を自由に拡大し、新たな空間を想像したり、新感覚な解釈をする事のほうが、望ましいと言った立場でした。
このことは、今回、他の母国語を持つ私が作曲をするテキストを選択する時に、とても重要な事でした。
 それは、テキストの持つ内容や、言葉の解釈の問題などに捕らわれる事のないボーダレスな作品を目指していたから。国境を意識しないで、作曲したかった。また、ギリシャというと、一般的に人はギリシャ特有の、美しいエーゲ海の青、白などの色彩や、太陽光線と神殿、神話などが、有機的にすぐ結合して、ある種のイメージを作り上げてしまいます。そんな解り易い印象も背景に垣間見えるけれど、私には、作者が込めたのはそんな具象としてのEpitaphより、異次元の世界で浮遊感を楽しむような、または、生死の狭間でしか得られない色彩によって、絵を描く。そんな行為をこの詩から強く覚えた。極論すると、私はこのEpitaphから、セフェリスの感じた異次元での追体験のようなものを感じ取った。
 この曲が作曲されたのは2001年ですが、様々な事象が重なって、今回の山本純ノ介ドイツツアー2004年でのパフォーマンスが、世界初演となります。

     

▲ ページトップへ

  2002        
   

借 景   
Shakkei (Eine Schuldenlandschaft)

   
   

 美しき天然たちは様々な角度から拙作に少なからず影響を及ぼしている。自然がどんなに芸術的な造形であり詩歌を感じても、それ自体は芸術にはならない。芸術は人為的なものでなければならない。
日本の美や、古来から伝わるアミニズムなどの美や、形而上的な示唆を、息吹、呼吸、のような音楽にしたいと、感じていた。
 着想は、ある縁で竜安寺に訪れた折に、ふと石庭の外壁の松の向こうはどうなっているのかなと思った事である。
 石の配置の謎の他にも、いくつかの謎が知られている。現在では抽象式庭園として名高い庭園だが、抽象式庭園は原則的に借景式であるという論方がある事を知った。
 自作の交響曲第3番<五重塔>は、和楽を導入した、協奏曲でない交響曲として作曲した。和洋相互の特性が反撥しあい、その対照が極められ、既存の西洋の交響曲には得られない東洋の精神性を具体的に伴った形にするには、必然であった。
 <借景>は、このような、私の作曲上の情念から連なるもであり、今回の作曲の途上でも、竜安寺の外壁の松があれほど高く伸長する数百年以前の古代ロマンを想像した。その頃に望見出来たであろうと推定される、山野の景観や仁和寺の五重塔、小高い山々などを思い巡らせながら起草して作曲したからと言って抽象音楽でなくなったと思わない。もう随分長い間、絶対音楽を求め、自問し、交響曲四番を書き進めているが、題名を伴った抽象作品もあり得るだろう、との思いは無くならない。
 本日の<借景>は私の意識が構成描写した抽象概念の音楽で<トリオ>としても良いのかも知れない。

     

▲ ページトップへ

  2003        
   

フルートとマリンバによる組曲
Suite für Flote und Marimba

   
   

 この作品は、フルートの中山早苗さんからの委嘱。当初からの計画で、作曲・演奏・映像・舞踏(順不同)がそれぞれ、『相対的に依存しないコラボレーション』を目指すことで、進められた。絶対的な個々の価値を主張し尚かつ、更にそれらが、一つの舞台上でコラボレートする緊張感の表現を模索した。したがって、初演の演奏会としてはコラボレーションであったけれど、音楽が映像や、パントマイムに委ねられている部分はない。それは、他の表現に、音楽が二次的な意味をもつのではなく、常に絶対的な立場を要求しているということだ。寧ろ、他の表現と競いあう事を望んでいる。『他の表現とのポリフォニーでありたい』(映像の宇井)。音楽はいくつかの部分からなる組曲形式の二重奏と独奏から出来ている。しかし、それらはいつでも独立した楽曲として成立する。独立した組曲としては、今回が初演となる。このコラボレートの全てを私のなかで、繋げているのは、パトスとエートスである。
パトス・Pathos(ギリシャ)の原義は蒙る(こうむる)の意。感情、激情、受難、などの意で、一瞬のうちに何かを生み出す契機となる。エートス・Ethos(ギリシャ)は人間の持続的な面を意味する。ある民族や社会集団の慣習や雰囲気。この二つの『瞬間』、と『持続』といった情念が私のテーマだった。
 曲は場所、場をあらわす意味のトポス・Topos、とパトスやエートスを司ろうとする、Logosを伴った組曲となっています。
・トポス・Topos1(マリンバソロ)、
・    Topos2(フルートバソロ)、
・ロゴス・Logos(デュオ)
・パトスとエートス・Pathos und Ethos(デュオ)

     

▲ ページトップへ

  2004        
   

"CALLIGRAPHY"(書)〜チェロとピアノのために〜
(2004改訂出版版)

Kalligraphie(Sho) für Violoncello und Klavier

   
   

 この作品はいわば、私の処女作といって良いと思う。今年の春に、当時の録音をじっくりと聴き直した。チェロの花崎さん、ピアノの丸山さん(作曲家)が20歳そこそこで、とても素晴らしい演奏を残して下さっている。残念ながらこの録音は、冒頭がほんの一部分、欠けているのだが、何度も聴いてみたら、生の演奏で、現在の自分の耳で改めて聴き直してみたい。と強く思った。当時の楽譜には、何ヶ所か改訂があり、今回は、その部分と、更に細部にわたり、加筆訂正した。題名でも今までに無いものをと、意気込んだ。書道のもつ、所作や静寂観などの意を込めた、カリグラフィーの名前と線的作曲技法の意味合いを込めた、ポリフォニーを融合した、KALLIPHONY『カリフォニー』としたが、更に静寂の(書)の意をより強めて、現在の題名となった。

 

   
  2004        
   

獨奏クラリネットのための旋律〜語り〜
Ein Lied für Klarinette allein Katari(Rezitieren)

   
   

 義太夫節をはじめた竹本義太夫(1651〜1714)は洋の違いはあるが、丁度Bach(1685〜1750)と近い時代に、日本で生きていた。
 彼は以前にあった様々な浄瑠璃(じょうるり)の長所を取入れて、新しい『語り』を開発し、義太夫節をはじめた。音楽では、普通『歌う』という言葉を用いるけれど、義太夫節では『歌う』と言わずに『語る』という。
 この曲の『語り』の題名はそのこと等を、強く意識して、作曲され命名した。
クラリネットの楽器上大きな特性の一つである、シャルモー音域に、執着しているのは、この『語り』の音域と重なる事と、他の管楽器では低音になる程、音量が増大し、弱奏や、細かな表現が難しくなる。
 しかし、クラリネットはその、強弱変化能力、アーティキュレーションなどの細かな表現が可能である事が魅力だ。ただ、この音域は、Mask(隠蔽いんぺい)され易いため、合奏においてはあまり意識されず、管弦楽法上は工夫が必要とされる。ここの音域の音色の特色を存分に活用したければ、究極は独奏であること。これは、ある楽曲と、とても長くつきあった経験から得たことである。
 西洋音楽史的にもWeberのFreischutzのOvertureでChalumeauの魅力を極めて劇的な緊張感を伴って経験できる。
この音域だけでなく、中、高音域なども大変魅力的な表現力を持った楽器であることは言うまでもない。平成15年の秋にラトル指揮、ベルリンフィルを家内と二人で、聴く機会に恵まれた。演奏会は私にとってとても興味ある曲目で、リゲティーの『ヴァイオリンコンチェルト』とベートーベンの『田園』というとりあわせだった。その時に田園の有名なパートソロを颯爽と吹かれていて、深い感銘を覚えたのが、本日演奏して下さる、フックス(Fuchs)さんである。音色の美しさたるや、超極上であった。『田園』は私にとってその後、特別な曲となった。さて浄瑠璃はもともと、牛若丸(うしわかまる)と姫(浄瑠璃)を物語った姫物語りが人形を使って、伝承されたものだが、現在は文楽となり、その伴奏(語りと古くは琵琶)が義太夫である。
その特徴は以下ののように分類できこの楽曲の根幹をなしている。
『地(ち)』;リズム、音程はあるがそれ程旋律らしくない部分
『節(ふし)』;旋律らしく『歌う』感じの部分。
『詞』;場面を説明する、台詞のような部分
拙作は日本の田園風景と重なるのだろうか。

     

▲ ページトップへ

             
   

声楽

       
  1980        
   

ONDINE ソプラノとピアノのために
Ondine für Sopran und Klavier

   
   

 妖精はケルトやラテン系の民族には美しく親切な女性として、様々な伝説や物語りに現れる。Elfは北方のゲルマン神話に出てくる小さい妖精。
日本にも河童や水伯など、各地に伝説も多い。
 吉原さんの詩はそういった伝説や優しい物語りでなく、今の我々の心の奥に潜む、自我や、欲望の萌芽を摘んでくれる良心的存在であったり、それらを引きずり出され、煩悩を意識させられる無形の妖精として存在する。
 あどけなさのなかの正義感や、無邪気に子犬を何度も池に落とすような酷さが同居しているあなたの幼年期とは。あの幼年期への思い。何かに、どこかに、回帰したい自分。自己の肯定や否定の連続、醜い人間関係から逃避し何かで満たされたい。水のようにいつも満たされていたい。母の子宮のなかで、ふわふわと浮かんで守ってもらいたい。誰も自分を守ってくれはしない、そんな厭世的な気分、願望をも癒し、叶えてくれそうな妖精に心の奥で出会い問答するのだろう。愛の堕落によって侵される日々の平安。生を受けた者にもともと平安など存在するのか。Ondine、その魔法によって束の間の安堵を生む。そんな錯角が倒錯する愛を呼ぶ。誠実であることは結果的に孤独を引き寄せ、自己のOndineからも裏切られる。
 現実と向き合うと、満たされぬ愛への不安と恐さ。すでに過去には戻れないことを知りつつも、ノスタルジアに身を委ねたい誘惑。
 そんな時、美しくも怪しい、自己や愛する人の心の奥に潜む、オンディーヌに出会ってしまう。
 理性ではない、あの懐かしさは何なのか、この気持ちは何だろうか。オンディーヌに出会ったことがあたかも原罪を突き付けられたように。自己愛を競うのはよせば良いと、解っているのに。水の妖精オンディーヌは私自信。

     

▲ ページトップへ

             
   

合唱

       
  1986        
   

万 象
Banshou

   
   

 『万象』は、私のはじめての合唱による組曲だ。合唱をどのように創作していくかは、当時修士課程を卒業して間もない『僕』にとって、難題でもあり、楽しみでもあり、それらを考察すること自体も作曲だと嬉しく感じていた。合唱において、これからの時代の組曲をどのように捉えて行くのか。このことは、各々の作曲家の創作姿勢そのものが顕れると当時から断じていた。
 私は、組曲の有り様を模索した。単に詩や作詞者によって統一されている組曲、自分の作品が何らかの意図で編纂されている組曲、西洋的な宗教儀式や舞曲になぞらえた組曲等は既に多数ある。ひとつの楽曲に多くの音楽的要素を鮨詰めにすると発想が器楽的になるし、ほんの3〜4分の間にいろいろ転調していくのも和声の知識比べのようで(それはそれで意義はあると思うが)気がひけた。それならむしろ対位法も取り入れたらどうか、などとも思った。和声の選び方についても、バッハ以降は12音技法も含め様式の違い、異なる和声様式観と解釈していたので、バッハの延長線上に歴史の流れに沿って直列に繋がるのではなく、バッハから直接に並列に繋がるべきものだと捉えていた。ゆえに自分は印象派とも並列であり、バッハから発展・展開した自己の様式を見つけよう、見つけたいと思っていた。
 結果的に私が探究してきた組曲は、組曲中の楽曲ひとつひとつの主張がはっきりした楽想で、個々に色合いが異なる楽曲創作の連なり。『終曲へと連なる山脈』のようなものだ。全曲を通して魅力的になると判断すれば、個別には単調な楽想・断片でも、推敲し楽章のひとつに仕上げ、全体のゆとり・緩衝の役割として恐れずに取り入れる。それに加え、構成曲各々の関係そのものの表現にも工夫を凝らし、曲間の意味・有り様についてまで演奏者が考えようとすることで、あたかも単一楽章、あるいはひとつのパフォーマンス(偶然的な手法を取り入れた、視覚・聴覚・運動覚への多面的な働きかけ((身体表現を含む))を演奏の中に取り入れること)としての、趣きを備えた創作品になるのだ。また当然ながら、個々の楽章そのものも、音楽的な完成度が高く磨きのかかったものであり、演奏によってさらに魅力的な表現に繋がっていかなければならない。そして、精神的な持続による楽曲の統一。これは詩の内容、テキストの選択の重要性も含まれる。『万象』ではまだパフォーマンス要素はなく、精神的持続が興味の中心だった。
 文章では簡単だが、これを楽曲に反映するのはなかなか難問である。『万象』以後の私の合唱組曲は以下のごとく全5曲全て、これらの精神で創作してきたものだ。
『万象』(精神的持続が高揚し音楽的ニューロンの活動電位が発生し終曲を迎える)
『季霊』(精神的持続が瞑想的に終曲を迎える)
『光葬』(初めて「動き」を楽譜に指示し、身体表現を意識した。3人のソプラノによる客席での歌唱と舞台への移動に伴う楽章の連結)
『二十億光年の孤独』(曲間に詩の朗読、終楽章にkopf(頭)による身体表現を導入した)
『心象の海』(終楽章のアカペラ曲をもとに詩人に短歌二首を詠んでもらい、本番でそれぞれがどちらかの歌を自由に選び詠み、心に感じながらヴォカリーズで演奏することにより、トライアングルなインターラクティブアートがリアルタイムで具現出来る。演奏の都度、短歌を様々な事象に変える事が出来る。例えば「コンピューターアートとピカソのゲルニカ」など、音楽以外のチャンスオブオペレーションを2つ以上設定すれば良い)
 今、『万象』を振り返れば、「青い」と感じてはにかまれるが、そのようにはしないだろう自分が今ここに在るのも事実で、あの頃の『僕』を再認識出来るようで、嬉しくもあるのだ。

 

 音源サンプル

(ジョヴァンニ・レコードサイト内にて公開)

 

▲ ページトップへ

  1997        
   

二億年ずつ23回
Niokunen zutu 23 kai

   
   

 

 

 

 

  1998        
   

光 葬
Kou-sou

   
   

 創世記の冒頭第一章3節に「神は『光あれ』と言われた」とある。森羅万象のはじまりである。
 いつの頃からか「音楽は崇高な祈りである」という理念に基づいて、私なりに仕事を続けている。特にどの宗教ということではない。最初に、有名な経典の一部を引用したけれど、作曲という行為を永く続けていると、超自然物、あるいは、超越的絶対者といった事について、一人でよく考えるようになる。そのような、神聖なものを、信じたり、考えたり、思いめぐらせたりすると、また、願い、願うこと。これらを、私は祈りと表現したい。そして、ここまでならば、宗教を超越できる。しかし、それらにある種の人的行為が、伴うと各々の道がある。
 古くは、アニミズム、自然崇拝、トーテミズムなどの原始宗教から、賢人達が、説いた様々な形態のそれらまでには、共通する「祈り」「願い」があるように思う。それらの普遍的な部分や言語では伝えづらい部分を人類の共通ツールである音楽・音響によって伝えていくことができる。(言葉とは違った方法で喜怒哀楽を表現しつつ)それには、個人レベルでの感性界の認知・発展・開発が、より大切だ。磨くべき感性を感じること。知覚できるようになること。
 音は、宗教のように説くことはできないけれど、人の感性やポエジーには、深く根ざすことができよう。ただ人の感性やポエジーといったものは、不意に魘われる。例えば、以前私が、ある作曲にいきづまり、心身ともに衰弱した日がつづいていた。その時、いつも見過ごしていた、欅の木々に心救われた。その新緑の美しさ、輝く木洩れ日、香り、そして風や葉ずれの音。感性とは各人の状況によってそれ程違いがあり、あてにならない身勝手なものであるけれど、でも音楽。
 コンピューターやシンセサイザーを、私はおおいに活用し、好きなツールだけれど、どんないこれらが発達しても、合唱という行為は必ず残ると考える。人間は生きている証として、歌を歌い詩を考えるから。なぜ詩人が、詩を考え書くかを私はとても知りたいけれど、なぜ曲を書くか、と私が問われれば、「人類のために」と答える。
 合唱は、原始的な集いだ。昔はユニゾン唱が中心で、権力の象徴だった。ハーモニーやポリフォニックといった喜遊が加わり、知的満足を求めるために声を出し、集う。
 しかし、声を出す原初はどこにあるのだろう。母胎の中で母の鼓動を知り、血液の流れる音に遠く祖先の海潮音を聴く。生まれた瞬間にはじめて声を出し、人となる。

 宗さんの詩を作曲していると様々な映像が浮かぶ。天空や海は勿論、太陽をはじめとした様々な鮮光、疾走する光の粒子、肌を突き抜けるニュートリノ。瞼を閉じると、CGのようなものから縄文の土の色まで幻想できる。
「生」・「死」・「魂」といったものは、一般には生の側から意識するものだが、それとは逆に、現在とは違った空間次元から、我々自身の魂を、鎮められたような気持ちになる。光で葬る。とても新鮮だった。詩に促されて、全体のスケッチをはじめていた。全体のフォーマットが見えたところで、宗左近氏に曲をつける旨、お許しを願ったところ、快諾を頂き、喜んで本格的に着手した。
 作曲の途上4・5曲は、当初のスケッチから発展し、4「神の影」と5「光葬」を続けて演奏することで、より一層緊張感を高めるとともに、※「詩の世界の観念的持続」(もっと適切な言葉があるのかもしれないが、作曲の途上での私の造語である)を、聴衆にもより強く働きかけ得ると判断した。
 遠い過去を見つめていると、そこに未来がある。同様に未来を予知しようとすると、そこに遠い過去を感じる。作曲をしていると、ふとそのように強く感じる。作曲の仕事は、予知と未知の交錯であり、様々な決断の連続である。それらは、素晴らしい演奏によって一切が、解放され昇華する。

※詩の世界の観念的持続:詩の世界から得られた啓示・黙示等を感じ続けて作曲・演奏すること。

 

 

▲ ページトップへ

  2003        
   

西風来来(にしかぜらいらい)
Nishikaze Rai Rai

   
   

 この組曲は、それぞれの曲の中にある、特徴あるリズム、音程やテンポに留意して、練習して下さい。

 一曲目は「ドシソファソ」の下降音程が、楽曲全体の印象をアジア的なものにしています。この旋律に七や九の和音を交えることで、西洋的な変化を与えています。沢山でてくるシンコペーションや、2拍3連などのリズムにも息吹を与えて下さい。

 2曲目は4拍目のうちにアクセントがあり、それがそのまま次の小節の頭にタイでつながる拍節形態の心地よさをみなさんが味わいながら、元気に、楽しくしかし、しっかりと歌って下さい。最後のコーダの部分は、それぞれのパートの音程を特に念入りに練習して、美しいハーモニーに仕上げて下さい。

 3曲目はワルツのリズムが重くならないこと。各々のパートの強弱の留意して、旋律の出し入れに工夫を。後半のゼクウェンスの部分は落ち葉の旋律をピアノが受けとって、それがまた風になびいて、などといった感じの、旋律の綾取りのようなイメージでしょうか。

 4曲目は『おいしい』とか『うまかった、ごちそうさま』といったような様々な国の単語をならべた歌詞から発展したオノマトベ的な歌詞で、個々の単語の意味にこだわるより、『おかーさん!御飯まだ?』とか『おいしい、お弁当ありがとう』といった雰囲気でしょうか。軽快な5拍子の音楽がついていますので、合唱が巧くリズムにのっていくことが大切です。後半が転じて和声の色合いに、気をつけた演奏が望まれます。器械体操で言うならば、さんざん跳躍したあとの、『バランス』で静止出来るかどうか『?・・・・・・』といったところでしょう。

 終曲は、全体のテンポをどのように設定して表現するかによって、演奏の優劣がはっきりしてくる曲でしょう。もちろん個々の音程や、パッセージの歌い方も微妙なニュアンスが要求されますが、歌詞の子音などがアッチェレランドなどのテンポの変化や、激しい強弱の変化によって埋没しないように気を配って下さい。

 

 

▲ ページトップへ

© Future Music Sound Research. Co., LTD